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夏になるとあちこちから聞えてくるシャギリの音。
シャギリと三島囃子はどう違うの?シャギリとはどういう意味なの?
郷土の伝統芸の祭礼囃子を調べてみました。
1.三島囃子の伝来
2.曲 目
3.三島囃子分脈
4.文化財指定
5.資 料
1.三島囃子の伝来
三島囃子調査報告書(以下報告書)によると、次の通りである。
三島囃子は、天文(てんぶん)年間(1532〜1554)三嶋大社の舞舞役であった幸若與惣太夫
によって創曲され、神領内に住む若者たちに伝えられたものといわれている。
当時の神領は、三島宿周辺だけでも、大場(だいば)・梅名(うめな)・御園(みその)・柿田(かきた)・
玉川(たまがわ)・中(なか)・谷田(やた)・川原ヶ谷(かわらがや)・一丁田(いっちょうだ)・土狩(とがり)の
十部落に及んでいた。
元来、祭り囃子は田植えの行事に添える鳴り物(田舎囃子)から起こったとの説もあるが、
当初から庶民の祭り囃子として発生したものもあるようだ。江戸時代になって、歌舞伎囃子が
変形して伝えられたもの、葛西囃子の流布したもの、更に又、椿井流御家人囃子に歌舞伎囃子
を調和したものなど、今日では、正しい発生の経路や流派の伝来を究めるにすこぶる困難と
なった。
三島囃子は、従来、単なる江戸囃子系の亜流と考えられていた。然るに関東地方はいうまでも
なく、東海、関西地方における祭り囃子との比較研究の結果は、全く独創的な祭り囃子である
ことが判明した。シャギリの音調はあくまでも高く勇壮活発で山神霊(やまみたま)をなぐさめるに
ふさわしい<野性的なスピード感にあふれている。三嶋大社が往古から大山祇命を祀り、日本
総鎮守として四民崇敬の的であったことに思いを馳せる時、この囃子が大明神の祭りに因んで
創曲されたことが理解される。
現在では、「三島囃子」とは「お囃子」と「しゃぎり」の両方を含めた総称になっている。
ところが、歴史的には、初めに「お囃子」だけがあり、後になって「しゃぎり」が作られたので、
本来の三島囃子は「お囃子」だけである。
三嶋大社の歴代宮司家である矢田部(やたべ)家の古文書に三島囃子のことを記録したものが
二つある。いわゆる『矢田部文書』と『矢田部日記』である。簡素な記録であるが、いずれも
三島囃子の由来を知るのに極めて貴重な手がかりとなる唯一の資料である。
三島囃子トップ
2.曲 目
報告書によると、幸若與惣太夫の創曲による三島囃子は次の七曲に分けることができる。
1.里ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 能管 1 大鼓 1 小鼓 1
新春を寿ぐ神楽ばやしに類似し、おだやかな囃子である。
2.吉野ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 大鼓 1 小鼓 1
春の桜花らんまんの頃をテーマに曲付けされたと考えられる陽気な囃子である。
3.道ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 大鼓 1 小鼓 1
五月頃のの道中を想像されるのどかな囃子で、音調も緩やかである。
4.山ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 大鼓 1 小鼓 1 摺鉦 3
夏山巡行する修験者の激しい行動の姿を曲付けしたもので、全曲中もっとも
勇壮な囃子である。
5.松ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 大鼓 1 小鼓 1
松の梢に鳴る秋風の哀れを表現した名曲と言われ、音調もゆるやかで豊である。
6.時雨ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 能管 1 篠笛 1 大鼓 1 小鼓 1
初冬の時雨したあたりの風景を材にした能楽風の囃子で、緩やかな音調の中に
すべてが溶けこんでいく。能管と篠笛を組み合わせた手法は如何にも幸若の流儀
らしい片鱗をみせた囃子である。
7.祇園ばやし 大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 大鼓 1 小鼓 1
七月の祇園会に供する静かな曲であって、比較的各地に流布している。京都の
祇園囃子からヒントを得た囃子であることは論を待たない。
吉野ばやし・松ばやし・祇園ばやしの三曲のみが現在も伝承されている。
里ばやし以下祇園ばやしの七曲には、三味線を加えた時代もあるが、昭和初年からは全く用いられなく
なった。現在演奏される三味線の手(吉野ばやし・松ばやし・祇園ばやしの三曲)は単に篠笛のメロディー
を二上り調子で演奏されており近年手付けされたものと思われる。
江戸時代になると、葛西囃子江戸市民に投じて華やかにクローズアップされた。享保年間(1716〜1736)
の始めのころ、江戸葛飾領三十三郷の総鎮守である葛西郡金町村の香取明神(現在、葛飾区東金町の
葛西神社)の禰宜(ねぎ)能勢環(のせたまき)が、敬神の和歌に合せて音律を工夫創作して創案した葛西囃子
である。、これを『和歌ばやし』と名ずけたのが始まりであるといわれている。
『和歌ばやし』は若者に伝えられ、香取明神の祭礼や近郷近在の祭礼には出張して、神社の境内に屋台を
設けて拍子面白く囃した。その後この囃子が普及していくと『和歌ばやし』が転じて『馬鹿ばやし』となったの
だと言われている。以来、それらの囃子は近郷はもちろんのこと、江戸市中、周辺各地まで広く普及し、
それぞれの祭礼に用いられる様になっていった。
『葛飾ばやし』ともいわれ、曲目は次の六曲から構成されている。
1.大間(だいぜん) 2.屋台下(やたいした) 3.昇殿(しょうでん) 4.四丁目(しっちょうめ)
5.馬鹿囃子(ばかばやし) 6.鎌倉(かまくら)
この曲は『神田ばやし』となり、『山王ばやし』と変転して関東地方や東海道筋に流布していった。
遠州横須賀の熊野神社の『三社ばやし』は明らかにこの流派のものである。
三島囃子の中にも次の如き曲がある。
1.屋台(喧嘩ばやし、競り合いに奏される 別名『喧嘩囃子』) 音調急激
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
2.神楽昇殿(神前に向かう) 音調緩やか
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
3.荷崩し(山車曳き廻し 別名『馬鹿囃子』) 音調やや急
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
4.四丁目(しっちょうめ)(山車小休止時の合の手) 音調急
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
5.大間(だいぜん) (山車行進) 音調普通
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
6.鎌倉(山車帰町 別名『戻り囃子』) 音調緩やか
大太鼓 1 小太鼓 2 篠笛 2 摺鉦 3
このうち、『大間』のみ伝承されていない。又、祭りの一日の終りにのみ演奏する短い曲
『切りばやし』がある。
昭和55年(1980)に三島囃子のレコード化するときに、川原ヶ谷の藤井和三郎氏が作曲した
『雷電』も演奏される。
三島では、篠笛は六穴を使用した時代もあるが、明治年間から七穴のものに替えた。その理由
は明らかではないが、音調の高い三島囃子では七穴のほうが全体の調子を整える上に必要で
あったと考えられる。
一般に、大人は五本調子を使用することが多い。子供は、息が続かない関係もあり六本調子を
使う事が多い。また大人のなかには、四本調子を使用する者もあるがやや音が低き感もある。
三島囃子トップ
3.三島囃子分脈
三島で起こり三島で栄えた三島囃子は、各地方に伝播していった。三島囃子の分脈は
次の通りである。
・駿河囃子(沼津日枝神社、楊原神社から駿東郡富士郡一円に伝播)
・加茂囃子(加茂郡南伊豆町上加茂賀茂神社を中心に南伊豆一円に流布)
・大瀬囃子(西浦囃子とも言う。沼津市西浦大瀬神社を中心に西伊豆海岸に流布)
『荷崩し』が、『馬鹿囃子』として演奏されている。
・北条囃子(田方郡韮山町四日町天王社を中心に北伊豆一円に流布)
現在残っているものは、『聖天(昇殿)』、『荷崩し』、『屋台』、『はや』、『七丁目(玉七)』である。
大鼓、小鼓、笛、太鼓で演奏する『篭丸』、『はや』は途絶えてしまった。この二曲が特に
北条囃子と言われるものではかと思うと惜しい限りである。
・深沢囃子(田方郡大仁町田京広瀬神社から中伊豆地方に伝播)
田京を中心に隣接する四地区で継承されている。広瀬神社の祭典は11月3日に行われ、
シャギリ(深沢囃子)が山車の上で披露される。曲は、『玉七』が演じられる。
・箱根囃子(一名芦川囃子と言う。箱根神社を中心に各村落に流布)
明治初年、箱根の湖畔に遊芸が流行した折、小田原囃子が導入され、新旧祭りばやしの音曲
が混合してできたものを『小田原ばやし』と言うようになった。全く『小田原ばやし』に同化された
音曲になっているが、天正(1573〜1592)の『餅米研ぎ』の行事をしのんで『箱根ばやし』と呼ん
でいる。曲目は、『おはやし』、『しほうでん』、『かんだまる』、『かまくら』、『しちょうめ』の五曲
である。
・伊豆囃子(熱海市伊豆山神社から東伊豆地方に伝播)
三島からの各地への波及は、現在ではほとんど残っていないようである。三島囃子も一時期、
途絶えていたことを考えると、それも仕方がないことなのかもしれない。
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4.文化財指定
昭和42年(1967) 三島市無形民俗文化財に指定。
平成3年(1991) 静岡県無形民俗文化財指定。
三島囃子トップ
5.資 料
参考文献は、こちらです。
【大太鼓】 (おおだいこ)
玉切りした木の幹をくり抜いた、一木づくりの長胴太鼓をさす。胴の材質は欅と目有の二種類に
大別され、目有には楠、栓、栃、唐木などが使われる。鋲止め部分から革を断ち切った縁(耳)なし
と、革を残した縁(耳)付きの二通りの仕上げがある。
祭囃子では通称として大太鼓のことを大胴(おおどう)とも呼ぶ。

縁(耳)なし 縁(耳)付き
【神田丸】 (かんだまる)
囃子の曲名。江戸時代、神田明神の大祭にて演奏された。「神田丸上」「神田丸下」と分けることも
ある。「昇殿」または「皮違昇殿」より入り、「鎌倉」に移る。
【幸若】 (こうわか)
日本中世芸能の一種。より古くから行われていた曲舞(くせまい)の流れをひくもので、叙事的な
内容の歌謡に簡単な所作を伴う。幸若舞、舞曲(ぶきょく)、曲舞、舞(まい)ともいう。
南北朝時代の武将桃井(もものい)直常の孫直詮(なおあきら)(1393〜1470)が父の没後、越前丹生郡
西田中村に住し、その後、叡山で学問修行中、生来音曲歌舞にすぐれていたところから、草紙物に
節をつけてうたった。これが人気を得、その歌舞を直詮の幼名幸若丸の名をとって幸若舞といった
のに始まるという。しかし、以上は由緒を高からしめるための伝説に過ぎず、その出自は本来唱門
(声聞)師(しょうもんじ)などの下層民にあるといわれ、芸能としての祖は曲舞に求められる。
幸若は舞というが、語りが主であり、舞らしいところは少なく、その点では平曲に似ているといって
いいが、二人あるいは三人の者が出て語り、所作が伴う点で、平曲とは違っている。
室町時代に盛んに行われ、軍記物が多かったためか、武士階級の絶大な支持を受けた。主流を
なした越前幸若は戦国時代に信長、秀吉の保護を受けて栄え、江戸時代には越前幸若三家
(幸若八郎九郎家、幸若弥次郎家、幸若小八郎家)が幕府の御用式楽家として重視され、江戸城中
における年頭拝賀も能楽者より上席であった。しかし、幕府の滅亡とともに禄を離れ衰滅した。
越前幸若系譜
幸若呉竹小八郎吉信---(弟子分家)---與太夫-----與惣太夫-----忠八-----五右衛門
文禄四(1595)没 小八郎の弟子 與太夫の子 與惣太夫弟 忠八の子
與太夫 呉竹小八郎吉信の弟子、幸若分家、天文元年(1532)伊豆大場村居住。
與惣太夫 天文年間(1532〜1554)に三島囃子を創曲。
忠八 後、法体、真盛と改名。
【小太鼓】 (こだいこ)
強く華やかな高音を発し、演奏に変化をもたせます。鉄輪に張った革を胴の両側に当て、ロープまた
はボルトによって締めつけ、強く締めるほど音が強く高くなります。革面の直径や胴の高さ、鉄輪の径
により、並附から5丁掛まであります。薄目の皮を張った三丁掛けでは皮が破れやすく、最も厚い皮を
はった五丁掛けでは音が低すぎるので、三島囃子では四丁掛けが一般的に使われる。昔は麻縄で締
める附締太鼓(つけしめだいこ)を使っていたが、現在はボルト締めの附締太鼓を使用する。
祭囃子では通称として小太鼓のことを小胴(こどう)とも呼ぶ。
ロープ締め、ボルト締め、座り台
【篠笛】 (しのぶえ)
日本の横笛の主なものには、神楽笛、高麗笛、龍笛、能管、そして篠笛と5種類の横笛がある。
篠笛は、一般庶民の笛で里神楽や獅子舞、祭囃子など民族芸能に用いられていたのが、歌舞伎
のお囃子、長唄などに取り入れられた。声の高さに自由に合わせることができるように、低音の笛
「一本調子」から高音の笛「十三笨調子」まで、半音違いの笛を用意することもある。
祭囃子では獅子田、朗童、丸山など系統の篠笛が用いらている。
三島囃子(シャギリを含む)では一般に、大人は五本調子を使用することが多い。子供は、息が続か
ない関係もあり六本調子を使う事が多い。また大人のなかには、四本調子を使用する者もあるが
やや音が低き感もある。
【獅子田】 (ししだ)
笛の作成系統の一つ。獅子田の篠笛は東京を中心に祭囃子で多く使われている。三島でも多く
使われている。江戸時代に篠笛を作り広めた笛師、獅子田三四郎の篠笛の流れ。
篠笛の源流。
丸山の印のついた笛もある。
【朗童】 (ろうどう)
篠笛の製作の系統の名称。久保井朗童の製作による篠笛。獅子田の同じ調子の篠笛に比べて
一本調子分長い。横浜市港北区日吉本町で篠笛工房をひらいている。
【丸山】 (まるやま)
篠笛の製作の系統の名称。関西方面に多い。獅子田流笛師の流れ。獅子田の笛も一部に丸山
の印を付ける。
篠笛
【四方殿】 (しほうでん)
囃子の曲名。「国堅め」の別名。重松流囃子などで呼ぱれている。
【国堅め、国固め、国が為】 (くにがため)
囃子の曲名。基本的には山の手流囃子の曲で下町流の囃子にはない。『宮鎌倉』より入り、
『仕丁目』ヘと移る。『宮鎌倉』を含めて『国堅め』とも言う。
【シャギリ、砂切、車切、斜切、舎限】 (しゃぎり)
1.能楽囃子の曲のひとつ。狂言、とくに脇狂言において、一曲をめでたく終結させるところに用い
られる。笛(能管)のみによって奏される。その旋律は、羯鼓(狂言羯鼓)のそれに酷似する。
2.歌舞伎囃子の曲のひとつ。最終幕を除く各幕が終了した時に奏する軽妙な曲。太鼓(締太鼓)、
大太鼓(長撥)、笛(能管)によって奏される。
【摺鉦】 (すりがね)
摺鉦、チャンチキ、チャンギリなど呼び方は地域によりさまざまである。真鍮(しんちゅう)を主材とした
金属でできた灰皿状の楽器。左手で持ち、鹿の角のついた打ち物(撞木)で内側をこするようにして
叩く。芝居の下座や、郷土芸能の音楽などに使用されている。
演奏法から摺鉦と言っていたものを、
「する」という言葉をきらい「当り鉦」という事もある。なお、祭囃子ではこの楽器のことを「与助、四助
(よすけ)」とも言うが、これは他の四人(締太鼓2人、大太鼓1人、笛1人)を助けるというところから
きている。
「摺鉦」は単に「鉦」とも呼ぶが、本来は「行人(ぎょうにん)鉦吾」または「鉦吾」と言う。「行人」とは行者
とも言い、仏教を修行するする人のことである。したがって、この鉦はもともと仏教念仏の鳴物として
作られたものである。

摺鉦 鉦吾
【鼓】 (つづみ)
日本の上代において皮革を用いる打楽器の総称として「つづみ」という語が用いられ、その語源は、
中国の「都曇鼓」からという説、あるいはインド系の紐締式の打楽器ドゥンドゥビーであるという説な
どがある。
【小鼓】 (こつづみ)
小鼓(こつづみ)は「おおかわ」と呼ばれる大鼓(おおつづみ)とペアとなる楽器で「大小」とも称される。
小鼓、大鼓、太鼓は全て木部の中をくりぬいた「胴」を二枚の皮ではさみ、「調緒(しらべお)」という
麻紐でみ上げている。両端に当てた革面を締める縦調、その中間を横にくくる横調がある。
調の掛け方は流派により異なる。
「胴」の素材は桜。黒漆が塗られ蒔絵が施される。蒲公英(たんぽぽ)、蕪(かぶら)、根曳きの松、
鳴子などがある。いずれも太い根(音)色、長く根(根)を引く、よく鳴るという願いが込められている。
「たんぽぽ」は小鼓の音も掛けているといわれる。
胴の中には「かんな目」という刀の堀り目がある。胴の中で音が屈折することをねらっている。革は
馬皮で、小鼓の革は敏感で柔らかい皮が要求され、生後2〜3カ月の幼馬がよいとされる。革にも
補強と装飾を兼ねた漆が塗ってある。
小鼓は、柔らかく丸みのある音色が特長で、革に適度な湿り気が必要なため、奏者が革に息を吹き
かけたり、唾液で湿らせたりする。一方、大鼓は硬質の高い音を出すため、極度の乾燥が必要で
演奏前に革を炭火で焙じて乾燥させる。
小鼓の革は古ければ古いほど良い音が出ると言われ、何回も何年も打ち込んで使われてこそ小鼓
の音色になる。その年月は百年を軽く超え、何世代にもわたって打ち継がれ、その家の響きを作る。
【大鼓】 (おおつづみ)
大鼓(おおつづみ)は、「おおかわ」とも呼び、小鼓とともに「大小」とも称されるようにペアとなる楽器。
小鼓、大鼓、太鼓は全て木部の中をくりぬいた「胴」を二枚の皮ではさみ、「調(しらべ)」という麻紐で
組み上げている。調緒と小締メで締め、化粧調は演奏時にはずす。
「胴」の素材は桜が多く、革は馬革がベストとされる。大鼓の革は、成馬のお尻、背中、肩などの丈夫
で堅い革を使う。小鼓の革は、敏感で柔らかい皮が要求され、生後2〜3カ月の幼馬がよいとされる。
大鼓は硬質の高い音を出すため、極度の乾燥が必要で演奏前に革を炭火で焙じて乾燥させる。
一方、小鼓は、柔らかく丸みのある音色が特長で、革に適度な湿り気が必要なため、奏者が革に息を
吹きかけたり、唾液で湿らせたりする。
大鼓は、革を打つ右手の勢いで音量と音質を調整するが、強い衝撃を避けるため、指先に「指革」
(和紙を貼り固めたもの)といわれるプロテクターを付ける。
大鼓、小鼓
【禰宜】 (ねぎ)
神社に奉職する神職の総称。古くは神主と祝(はふり)の間に位置したが、現在の職制では
宮司・権宮司の下に置かれる。
【祝(はふり)】神主・禰宜(ねぎ)に従って祭祀(さいし)をつかさどる神職。また、広く神職の総称。
【能管】 (のうかん)
日本の横笛の主なものには、神楽笛、高麗笛、龍笛、能管、そして篠笛と5種類の横笛がある。
能管は、能楽に使用するために鎌倉時代に雅楽で用いられる龍笛(りゅうてき)を改良して作られた
ものといわれ、外見上、龍笛と似ており、指孔も同じように七つあるが、歌口(吹口)と歌口に最も近
い指孔の管内部に「喉(のど)」という短い竹管がさしこまれており、世界に類を見ない構造となって
いる。そのため、ほかの笛と違って、同じ指孔で息を強く吹き込んでもオクターブ上の音とならず、
能管独特の音律である「ヒシギ」(息を強く吹き込み高く鋭い音を発する奏法で、登場の囃子や曲の
終わりに使われる)が出しやすく、1管ごとに音律も異なる。
能管本体の材料は、龍笛、篠笛と同じく乾燥させた女竹(篠竹)が使われる。最も理想的な材料は、
100年以上いぶされた煤竹とされる。
能管は、堅く肉厚の女竹を用い管内に漆を厚く塗る。地漆の固く厚い層によって管内の響きを良くし、
音律を調整する目的で内径の変化を作り出すための技法。歌口の上の巻きの途切れた部分は竹の
節を模したもので、その裏側には「蝉(せみ)」と呼ばれるやはり竹の節の枝の付根の部分を模した
ものを黒壇で彫刻する。巻きは「樺巻き(かばまき)と言い、桜(藤)の皮を細断しつないでいったものを
断面を整えて巻き、内部と孔の周りを朱で、樺巻きの部分を黒色漆とほこり漆で仕上げる。
能管
【矢田部文書】 (やたべぶんしょ)
三嶋宮御囃子之儀自二先御代一被二定置一処令二難渋一由曲事ニ候
自レ今以後如二古来一可二相催一旨被二仰出一者也仍如レ件
天正十一年八月朔日
安藤豊前 花押
川原谷郷
谷田郷
大場郷 代官 百姓中
梅名郷
柿田郷
|
(注)返り点(二、一、レ)は、加筆。原文は当然の事ながら縦書きである。
(本文要旨)
三嶋宮の御囃子は先御代から定め置かれてあるのに、難渋しているようで不都合である。
これからは古来のように催すように申し付ける。
今から約420年も昔の天正十一年(1583)に、「先御代より定め置かるところ」とか、「古来の如く
相催すべき旨」と言うのであるから、ずっと昔、おそらく当初から三島囃子は近郷の百姓衆に
よって演じられていたということになる。
天正十一年は時代の転換期にあたる。前年の六月に『本能寺の変』で織田信長が討たれ、
この年の六月には豊臣秀吉が大阪城に入り、この文書の八月には、領土を諸将に頒(わか)って、
実質的に信長の後を継いで実権を掌握した時に当たる。
【矢田部日記】 (やたべにっき)
矢田部氏日記用留
八月九日 (寛文九年)
一.御宿中祈禱之ため御祭礼当日山車屋台曳き廻し致度旨問屋助左衛門罷出清右衛門に相願候。
尤先規之通宿中人数差出寄進候積ニテ勿論宿役人日々相詰人数引廻シ差図ヲ加え取計候積ニテ有レ之
右宿中祈禱之ため相願候事願之通り聞済遺ス
一.天文年間幸若與太夫伜與惣太夫三島囃子曲付仕り候事。
一.幸若與太夫父子大場村ニ住居仕り候而舞々務に御座候事。 |
(注)返り点(二、一、レ)は、加筆。原文は当然の事ながら縦書きである。
(本文要旨)
一.氏子の者たちが、祭礼の当日に山車屋台の曳き廻しをして祭礼を盛大にしたいと、問屋助左衛門が来て、
清石衛門に願い出た。
それについて、これまで通りに定められた人数は出し、勿論、宿役の人も毎日詰めて、人数の手配指図も
支障のないようにやるという。
これは、氏子の人たちの敬神の念によるものであるので、願い出た通りに聞き届けて承諾してやった。
一.天文(てんぶん)年間に、幸若與太夫の息子の與惣太夫が、三島囃子の曲を作った。
一.幸若與太夫父子は大場村に住んでいて、舞々務(まいまいづとめ)であった。
この文書が書かれた寛文九年(1669)は、江戸時代初期で、三代将軍家光の死後十八年、四代将軍家綱
の時代である。そして、この文書の筆者は、矢田部家系譜の中にある四十九代当主の矢田部盛直である。
【参考文献】
三島囃子調査報告書(昭和40年(1965)7月31日) 三島市文化財審議委員会 調査担当 戸羽山 瀚
しゃぎり(1992年8月15日) 浅井徳政著 静岡新聞社
季刊邦楽(昭和55年(1980)12月20日〜昭和59年(1984)3月25日) 邦楽社
音楽大事典(1998年7月20日) 平凡社
大辞林 第二版(1995年11月3日) 松村明 編 三省堂
横濱里囃子 九 祭囃子の言葉(平成6年(1994)11月第1版 35頁) 棚橋 誠著
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